分岐点

砂連尾 理

更新日:2011年09月18日(日)

砂連尾 理 振付家・ダンサー 
「開かなかった扉」

 ダンスを始めたのは大学に入った19歳の時。その始まりはホント軽い気持ちでした。そんなダンスが思いの外はまってしまい、最初の4年間はそれにどっぷりでした。しかし、習っていた研究所の古い徒弟制度に馴染めず、大学4年も終わろうとしたその年の1月に色々あったあげく、私はそこをやめる事にしました。
 
 そこで負った徒労感も手伝い、研究所をやめた時はダンスを止める覚悟でした。
しかし、小学校からのつきあいの友人に劇団を立ち上げるからと誘われ、何となく手伝っていたら、舞台への未練は断ち切れず、再びダンスを続ける事に。閉まりかけたダンスの扉は友人の手によって再び開かれ始めたのです。

 そして、どうせ再開するなら今度は基礎の基礎からと思い、バレエの門を叩きました。そうした所、今度は古い徒弟制度はなく、良い先生にも出会える事ができました。バレエは難しかったし、なかなか上手くならなかったのですが、とても充実していた事を覚えています。
 その楽しさが高じて、どうせこのまま続けるならダンスの本場ニューヨークへ行こうと、その当時から根拠のない自信を持ってしまう傾向にあった私は一気に気持ちを膨らませてしまい、心を海外へと向けていったのです。
 時は大学6年(!?)の夏、現ユニットの相方である寺田さんとの出会いもこの頃で閉まりかけていたダンスの扉は一転して思わぬ方向へ大きく開き始めたのです。

 そして、1990年5月、2年の留年を経て大学を卒業したその春に私はダンス留学のため、初めてニューヨークへと旅立ちました。しかし、ダンス留学とは名ばかりで、進む学校も、住む所も決めず、計画性のない、思いつきだけの行動でした。
 それに加え、拙い語学力に、7万程の少ない所持金での渡米は、無茶と言うか無謀と言うか、その当時の私のお気楽さは今振り返ると呆れてしまいます。

 それから、行ってからはと言うと‥‥、やはり現実はそんなに甘いものではなく、厳しかったのです。お金は日に日になくなり、期待していたバイトにもありつけず、住む所もままならずと、何もかもが上手くいかなかったのです。
 そうなると人は弱いもので精神的にも追い込まれ、次第に体調も崩していきました。情けない話ですが、渡米後10日くらい経った頃でしょうか、もう不安で、孤独で、寂しくて、一人ホテルのベッドの中で包まっていた私は、その辛さに耐えきれず一気に帰国を決意してしまいました。そして決意したその翌日、帰りの航空チケットの予約をしにオフィスへと向かったのです。涙をながさんぐらいの姿で入り口に辿り着いた私は、挫折感に打ち拉がれた気持ちをグッと押さえ、オフィスの扉を開けようと取っ手を強く引っぱりました。しかし、ビクともしません。思い直して、次に取っ手を押してみたのですが、やはり扉は動きません。もしやと思い、扉をよく見ると何て事でしょう、その日は土曜日でオフィスは休みだったのです。

 神様が、まだ帰るなとの思し召し!? 大袈裟でなく、その時、私はそう思いました。そう思う私が馬鹿なのか? あるいは楽観的すぎるのか? しかし、その一件があって以降、私自身はとても開き直れたのですね。どんよりした気持ちは晴れ、バイトが見つかり、良い賃貸物件を紹介してもらえる等、それまでの事が何なのと思えるくらい事態は一気に好転していきました。
 それからというものは生活の基盤が安定し、今の活動の礎となる素晴らしい先生との出会いや多くのレッスン、そして数々の素晴らしいパフォーマンスと遭遇出来たのです。

 振り返ってみると、私の前には私をダンスへと導くいくつもの扉がありました。
時に自分で開けては閉めかけたり、またある時は閉めようと思っていたのに友人が開けてくれたりと、自らの熱い思いや強い意志だけでなく、与り知らない色々な力が、その扉を動かしていました。

もしあの時、オフィスの扉が開いていたら。
もちろん、私がダンスを続ける事が出来たのは多くの人との出会いや、支えがあったからこそなのだけれど、あの日の閉まっていた扉にも、現在の活動に繋がる分岐点があったのだと、今の私にはそう思えるのです。

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