川上 明子 舞台美術家・舞台監督
父方の祖父は大工でした。
私は祖父に会ったことがありません。
今の私を見たら何というかな、とふと思うことがあります。
私は京都の小劇場で舞台(大道具)を作る仕事をしています。
この様な表現の世界があると知ったのは大学一回生の夏、美術部の先輩に連れられて演劇部のOB劇団の大道具製作現場を手伝いに行った日です。
ものすごく暑い日でした。
作業場には、もうもうと木の粉が舞い、気化したボンドや塗料の臭いが充満していて薄暗く、頭にタオルを巻いた汚い格好の男の人達が黙々と巨大なクジラの骨の標本を作っていました。それは木と紙とざらざらした布だけで出来ていて、一本が人の背丈程もある胸骨が何本も緩やかなカーブを描いて空に向かってのびていました。横には石造りの大きな噴水があり、前から見ると本物そっくりなのに、後ろにまわると実際感じた厚みの半分もなく空洞で、荒い木の骨組みや発泡スチロールがむき出しでした。
だまされた、と思いました。
「裏側はお客さんには見えへんからな。でもコレ、ほんまに水出るんやで」
骨のクジラは暗い水底で仲間達と力強く鳴き交わし、四畳半のアパートの一室がぐるりと回って現れた噴水の水は、きらきら輝いて石畳に降りそそぎ、街を飲み込む海になりました。
私は夏休みが終わっても学校へは行かず、そのままその芝居の地方公演についてまわり、秋に帰って美術部を辞めました。生きている絵をつくる人になりたいと、思いました。
一枚の絵が、多くの人々の手によって立体となって立ち上がり、目の前で生きもののように呼吸し始める瞬間があります。
生きた俳優がそこに立って呼吸する。物語の世界の音が入り明かりが変化して、俳優の息づかいが変わると舞台もまた変化する。沢山のやりとりを交わした人達と分かち合うその瞬間は、毎回楽しみでもあり、また恐ろしくもあります。
私は家を建てることは出来ませんが、劇場の中の世界で「家」に見えるものを作ることがあります。
裏にまわれば、骨組みや簡単な支えがむき出しの偽者の家です。父は私の話や、そうした数枚の写真から、どうやら娘は「大工のようなもの」になったと理解しているようです。
当たらずしも遠からず。
毎回必ずひとつは大失敗をして冷汗たらたら釘を抜きつつも、木の香のする作業場で新しい絵をつくり、壊し続けることが楽しくて仕方ありません。昔ながらの鎚打つリズムが、こんなにも心地よく離れがたいものとして胸の奥底に響くのは、やはり祖父から受け継いだ何かのせいのような気がします。
そんな言い訳も含めてようやく最近、肩の力を抜いて今までの自分の生き方を、少しだけ愛しい気持ちで振り返ることが出来るようになってきました。