小さい頃からダンスを習っていた訳でもなく、
高校の国語教師として働いていた私は、
ダンスを仕事にすることなど想像もしていなかった。
そもそも、痩せるために通い始めたダンス教室が自分にとってのダンスの扉だった。
それが、意外や意外興奮に満ちたものだったのである。
のめり込むとはこういうことかというように、週1回が週2回に、
やがて週3回を超えて日曜祝日まで稽古に明け暮れることになる。
国語教師としての教材研究やテキスト作り、
採点などとダンスを両立させるために、
余暇や睡眠時間を削れるだけ削っていった。
2004年、別ジャンル出身のダンサー阿比留修一と
セレノグラフィカを結成して7年目のことである。
当時少しずつアウトリーチ*1という言葉を耳にするようになっていたが、
門真市の中学校におよそ半年間授業にでかけ*2、中2の女子13名の、
文化祭発表の作品創りに付き合うことになったのだ。
自意識が過剰で多感、しかも美意識にこだわりの芽生え始めた彼女たちとの作業は大変だった。
私が素敵だと思って提案することは彼女たちにとって
「変」だったり「ダサ」かったり「キショ」かったりした。
彼女たちにとってのダンスはテレビの中でかっこ良く踊られているものだった。
「そんなんいまいちー」と言い続ける彼女たちに、
何が本人たちを最も輝かせるのかを説き続ける日々。
普段のワークショップは、ダンスに関心のある人や受けに来たくて来ている人がほとんどで、
衝突など無かったので、まさに丸裸にさせられるに等しい出来事。
私にとっての地殻変動だった。
文化祭当日、「ありがとう」と泣いてくれた女子たち。
何度も重ねる抱擁。
その別れは、私の錨を岸壁から下ろしてくれることとなった。
翌年3月に高校を退職。
私は、安定した生活の目処も無くダンスを自分にとって唯一の仕事とすることに踏み切った。
同僚は、「選ぶ方を間違えてるんじゃないのか?」と心配してくれだものだ。
あれから8年。年間3分の1を全国各地への遠征で過ごすようになった。
130校を超えるアウトリーチを経て、私はダンスを伝え、
究めること以上の充実は自分には無いと確信して生きている。
隅地 茉歩 【振付家・ダンサー(セレノグラフィカ代表)】
*1 公的機関、公共的文化施設などが行う、地域へ の出張サービス。
例えば公共ホールがプロのアーティストを地域の学校や福祉施設に派遣して
ワークショップ、ミニコンサートなどを行う普及活動。
*2 「トヨタ子どもとアーティストの出会い」による事業。
全国初の中学校へのダンスのアウトリーチ事業となった。